190514 藤原東演 / 『捨てる幸せ』 読書グラフィ 今日読んだ本

読書グラフィ 今日読んだ本

★藤原東演 / 『捨てる幸せ』



●自分を大切にするには、どうしたらいいでしょうか。


カウンセラーに聞きますと、


自分を責めて悪く評価することをまずやめてしまう。


できるだけ、自分のありのままの心を、まず見つめ、

そのまま認めることが大事だと言います。


具体的に言えば、何か気分が滅入ることがあったら、

どこを気にしているのか、チェックしてみます。


そのとき「自分はこういう問題が気になっている」

「あの人の言動が気になって仕方がない」という点だけを観る、


そう、感情的な自分と距離をおいて、そういう自分を横において、

外から眺めるように視座を変えてみることだと教えます。



●虚心になって心を見つめるとき、自分の心の持ち方が、

イライラ、迷い、悩みや苦しみを創り出していることがわかります。

さらに毎日を作っていくことが観えるようになっていくことを教えているのです。


このように観えるようになるには、自分を整えることです。


自分の心と身体を整えていけば、少しずつ自分のありのままの姿が観え、

解決の道が現れ歩んでいくことができますよ。



●『金剛経

「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」という言葉。

まだ来ぬ先のことをやたらと思い悩んで、

イライラしたり、クヨクヨしても仕方がないものです。

未来はまだ来ていないのですから。



●ともかく今できることに打ち込みましょう。

 今ここを楽しみましょう。


 これができれば、不安はいつしか消えてしまうこと請け合いです。



●唐の時代の禅師 無業(むごう)の言葉 「莫妄想(まくもうぞう)」

ひと言で言えば、「妄想することなかれ」


「妄想」というと、よからぬことや、ありもしないことを、

あれこれと想像することのように思うかもしれません。


しかし、ここで言う「妄想」とは、それだけの意味ではありません。


私たちは、物事を二つに分けて考えます。

たとえば「いい」「悪い」と評価を決めつけたり、

「あれが嫌い」「これは好き」と区別したり、

「それは損だ」「これのほうが得だ」と言ったりします。


人と自分を比べて落ち込むことも、妄想の仕業です。


すなわち妄想とは、人の心を縛る思い込み、

揺れ動く思いのすべてを指す言葉なのです。


妄想に邪魔されることなく、

物事を、ただその物事として見ることができたら、

私たちの心はもっと自由に、広く、柔軟になると思いませんか。


妄想がおきたら「莫妄想」とつぶやいてみてください。

そして起った妄想はそのままにしておきましょう。


ただ今、ここに、打ち込めばいいのです。


あらゆる思い込みを完全に消すことはできませんが、

その妄想は自然と気にならなくなっていきます。



●よく「可もなく不可もない」などと言いますが、

これは「いいところもなければ悪いところもない、

つまり特筆すべきものがない」というニュアンスで、

あまりいい意味では使われませんね。


でも、これを禅の視点からとらえると、

「ちょうどいい」という意味合いになるのです。



●誰もが心のどこかに虚栄心を持っているものですし、

またこれは一筋縄ではいかない複雑な心理でもあります。


自分の良くない性質や癖をさらけだしたり、

悪い行いを打ち明けたように見えても、

それで虚栄心がないと言えるのかと言えば、そうとも言えません。


弱みをさらけ出しながら、その実、

もっとやましい部分を隠そうとするのもまた、人間心理の常だからです。



良寛の句

「裏を見せ 表を見せて 散る紅葉(もみじ)」



●その場その場、そのときどきを賢明に生きているうちに、

いつのまにか、なにかを成し遂げることができる。



●唐末期 臨済宗の開祖 臨済禅師

「随所に主と作れば(なれば)、立処皆真なり(りっしょみなしんなり)」


「どんな状況に置かれても、

 それに順じ自分が主人公になって生きれば、

 立つ場所、すべてが人生の舞台となって、

 生きる喜びを感じる真実の世界になる」といった意味です。



●禅語「なりきる」

今この場、そのときどきになすべきことに、

自分を忘れて無心に打ち込む

-言うなれば、そのときの役割に「なりきる」とき、

人は自我という足かせから自由になれるのです。


これは、「自分をなくす」「見失う」ということではありません。

逆になすべきことは、生き切ることなんです。



不本意な仕事をするときも、

 そこで果たすべき役割になりきってしまえばいいのではないでしょうか。


 文句を言って嫌な気分にとらわれてしまう前に、

 さっさと仕事に飛び込んでやる、

 自ずと力を発揮させて終わらせてしまえばいい、それだけのことです。



●「汝、名はなんぞ」

まずは、外側にくっついている属性や肩書きをとりはらい、

組織からも世間体からも開放された自由を感じてみる。


そのために、なにかこれまでにまったくかかわりのないサークルとか、

カルチャースクールにはいってみることをすすめます。

自分が肩書きで評価されない場をセットしてみることです。


そこからさまざまな内面を併せ持つ自分を顧みる。

ときにはこうして、

自分というものを探求してみるのもいいのではないでしょうか。

何者か限定できないパワーが息づいていることを感じるはずです。



●唐の時代の禅僧 慧能(えのう)


 自分を論破しようと訪れた法達(ほうたつ)に


「何万回学び、その意味を理解し尽くしたとしてもなお、

 自分がすぐれているという思いを捨てるのなら、私とともに修行しよう」



●ある学校の掲示板『わたしの出会った大切なひと言』


 叩かれて強くなり、

 叱られて正しくなり、

 笑われて自己を知る。



●人生の意味を外に求めるより、

 起こった出来事によって思い悩みながらも、

 自分に与えられている物事に打ち込む。


 そのとき、自分は今、生きているという

 深く味わえる充実感を体験することができるのです。



坂村真民


 ただ生き、ただ死す。

 ただこの二字に一切が輝き、

 ただの二音に万有が光る。



#読書 #人生訓