191212 玄田有史 / 『希望のつくり方』 読書グラフィ 今日読んだ本

読書グラフィ 今日読んだ本

玄田有史 / 『希望のつくり方』



●地域の再生を語るとき、

「他所者、若者、馬鹿者」が大切といわれたりします。


・強力なエネルギーを持つ若者、既成概念を壊すバカ者、

 新しい見方を醸成するよそ者の存在が、

 企業や社会の変革に必要な存在になると指摘している

(出典:https://www.yakuji.co.jp/entry40658.html



社会学者 山田昌弘

パラサイト・シングル」「婚活」など、印象的なネーミングが得意。


「希望は、努力が報われるときに生じる感情状態である。

 努力をしてもしなくても結果は同じだと感じたときに、

 そこにディスペアー(Despair=絶望)が生じる。」



●人生という長い道のり、

 誰もが必ず途中で、迷ったり、悩んだりします。


 そのときに、どうすればいいのか。


 そんな困難をくぐり抜けてきた人が、生きるための知恵として、

 いろいろなかたちでその経験を若い世代に伝えていく。

 それが本当のキャリア教育です。



●「今は医者も患者に気楽に大丈夫なんていえないんです。

 そんなことをいって、いざ訴訟にでもなったとき、

 あのとき「大丈夫っていったじゃないか」といわれて

 タイヘンなことになる。」


「頑張れ」も気をつけて使わないと、

 いわれたほうはつらいものですが、

「大丈夫?」もけっこうこたえるものです。


●大丈夫という言葉は、どのように使えばいいのでしょう。


 まず大事なことは「○○すれば大丈夫」といった、

 条件付きの大丈夫であることです。


 ○○の内容は、誰かから聞いた言葉ではなく、

 自分自身がかつて苦しいときに経験し、

 そこで得た知恵に基づいた言葉こそ、力を持ちます。


 さらに、不安になっている人に対して、

 行動を促す言葉がよいようです。



●大きな壁にぶつかったときに、大切なことはただ一つ。

 壁の前でちゃんとウロウロしていること。

 ちゃんとウロウロしていれば、だいたい大丈夫。


 どうしよう、どうしようと、

 とにかく立ち止まらずに壁の前を行ったり来たりする。


 そのとき本当に偶然なのですが、

 壁の下に小さな穴がみつかったりすることがある。


 その穴は、行動せずに立ち止まっていただけでは、

 みつからなかったかもしれない。


 見通しもよくわからないまま、挫折しそうな壁の前で、

 ただウロウロするなんて、たしかに無駄なことのように思えます。


 けれども希望は、

 無駄とか損とかいう計算の向こうにみつかったりするものです。


 そして挫折を経験しながらも、ときに他の誰かの力をかりて

 試練をくぐり抜けていこうとする行為そのものに、

 希望は宿るのです。



●ある有名な女性歌手

「私は、絶望の反対は、ユーモアだと思う。」


 三省堂新明解国語辞典


 ユーモアとは

「社会生活(人間関係)における不要な緊迫を和らげるのに役立つ、

 えんきょく表現によるおかしみ。

 [矛盾、不合理に対する鋭い指摘を、

 やんわりした表現で包んだもの]。」


 希望を持ちにくい社会とは、

 本当は多くがユーモアを失いつつある社会なのかもしれません。


 ユーモアがあるとは、

 人を笑わせるのが得意だということばかりではありません。


 他者の痛みに対する共感と想像力を持ち、

 いっけん無駄にみえるものでもすぐに切り捨てたりせず、

 自分の過去の失敗なども潔く語れるところに、ユーモアは生まれます。


 苦しい状況でも、そんなユーモアを忘れないところに、

 希望も生まれるのです。




「結局、希望には遊びが一番大事だと思うんです。」


 私たちは、希望などなかったとしても、

 生きていくことはできます。


 その意味で、希望は、社会生活のなかで

 どうしても不可欠なものでは、ないのかもしれません。


 効率ばかりが優先され、

 遊びが社会のあらゆるところで急速に失われつつある現代の状況こそ、

 希望のない閉塞感に覆われた社会の正体なのです。


 遊びそれ自体は無駄に思えるかもしれませんが、

 遊びがあってはじめて偶発的な出会いや発見が生まれます。


 遊びのある社会こそ、創造性は生まれますし、

 希望もつくりだせるのです。



●「まんざらではない」


 その言葉には、報われるとか、成功するとかいったこととはちがう、

 希望を持って生きることの

 大切な意味が込められているように感じるのです。


 まんざらじゃないという言葉は、

 フランス語のセ・ラ・ヴィ(それが人生さ)や、

 英語のザッツ・ライフ(世の中はそんなもんだ)といった

 表現に通じるところがあります。


「まんざらではない」は、

 社会的にみて成功者だから必ずいえるものでもなければ、

 目立った成功などなくても、

 経験とそのふりかえり方次第では、誰でもいえる言葉です。


 希望について考えながら、私自身、

 これからは「まんざらじゃない」

 といえるような生活を送りたいと思うようになりました。


 あせることはない。まだいえなくても大丈夫。

 今は、「人生、まんざらじゃない」という言葉が

 似合うような60歳になることを、

 これからの自分の希望にしようかなと、ひそかに考えているところです。



●一番いいたかったのは、

 希望はあたえられるものではなく、自分で(もしくは自分たちで)

 つくり出すものだということでした。



●スポーツなどにかぎらず、

 私たちが毎日ふつうに生活できているということ自体、

 本当はすごいことだと考えれば、

 感動の種は、日常の生活や地域のなかにいっぱい落ちています。



●どうすれば希望を自分でつくれるかのヒント

(1)希望は「気持ち」「何か」「実現」「行動」の

 四本の柱から成り立っている。


 希望がみつからないとき、

 四本の柱のうち、どれが欠けているのかを探す。


(2)いつも会うわけではないけれど、

 ゆるやかな信頼でつながった仲間(ウィーク・タイズ)が、

 自分の知らなかったヒントをもたらす。


(3)失望した後に、つらかった経験を踏まえて、

 次の新しい希望へと、柔軟に修正させていく。


(4)過去の挫折の意味を自分の言葉で語れる人ほど、

 未来の希望を語ることができる。


(5)無駄に対して否定的になりすぎると、

 希望との思いがけない出会いもなくなっていく。


(6)わからないもの、どっちつかずのものを、

 理解不能として安易に切り捨てたりしない。


(7)大きな壁にぶつかったら、

 壁の前でちゃんとウロウロする。


(8)「     」

※自分でみつけて、書き入れる。



希望学から私が知った一番大事な事実とは、

 よくわからないものにチャレンジすることを応援してくれる人が、

 まだまだ日本にはたくさんいるということだったのかもしれません。


 希望をつくるには、応援も必要です。


 誰のことも応援しようとせず、

 応援だけはしてもらいたいというのは、無理な話です。


 自分も誰かを応援することが、応援を得ることにつながります。


 希望づくりを互いに応援する関係があるところにこそ、

 希望の時代は開けるのだと、私は今、思っています。



#読書 #人生訓

 

 

玄田有史 / 『希望のつくり方』